石橋
ある小さな川にかかっている石橋とだけ言っておこう。
場所は言えない。
誰かが私のような目に遭うのは、本意ではないから。

あれは3年前の夏だった。
そのころ、私はある地方都市に住んでいた。
そこにあった大学に入学し、そのままある会社に入社しただけの、私にとってはそれほど愛着もないただの町であった。
ただ、今になってみれば、その町の名を告げたときの父の驚く顔を思い出す。
父方の親戚がたくさん住んでいたから、という説明を疑うこともなく聞いていた自分が悔やまれてならない。
そして、父は聞いたのだった。そこにまだあの橋はあるのかと・・・

暑い日だった。あまり酒に強くない私も、同僚にビヤホールで冷たいのを飲まないかと誘われてしこたま飲み、ふらつきながらの帰りだった。

夜の11時を少し回っていただろうか。
次の日は休みだったし、急ぐ理由もなかったのでいつもの道ではなくちょっと遠回りをして、川の方へ行ってみようかという気になったのだ。
石橋に差し掛かると、涼しい夜風が吹いてきた。
“ちり〜ん”“ちり〜ん”風鈴の風情のある音にも誘われ、少し涼んでいこうかなと考えて、橋の欄干に腰を下ろした。
最近 残業続きで、そのうえ慣れぬ酒を飲み過ぎたのだろう、吐き気を催して、川の方に顔を向けたその時だった。

川面に映っていたのだ、月の光に照らされた私の首に、女性の手が巻き付いているのが。
顔を見たわけでもないけれど、不思議なことに女性だとわかった。
その手は私の首を締め付ける。
苦しくてもがいていると、何かが口の中へ入ってきた。
それは一瞬の出来事で、そのあとは何事もなかったかのように気分もすっきりした。
「今のは何だったんだ?」

霊感や幽霊の類は信じない私なので、“悪酔いでもしたかな”程度の気分で自分のアパートへ帰った。
しかし、寝ようとして目を閉じるとあの石橋が浮かんでくる。
そして“ちり〜ん”“ちり〜ん”とどこからか風鈴の鳴るおとがする。
時計は午前2時を指していた。
どうしても気になり、布団から起きあがって小走りにあの石橋へ行った。
石橋の真ん中まで来ると、橋の両端にある擬宝珠がぼぅと光っていた。
でも、何かが違う。擬宝珠の飾りが光るはずがない。
擬宝珠だと思っていたものは、髪を束ねた女の頭だった。
暗闇の中に浮かび上がるその顔は、いましがた死んだばかりのように、噛みしめた口からは血を流し、そのまなこは、まっすぐ私を見据えていた。

すぐにそこを離れようとしたが、足がもつれてその場に倒れてしまった。
“ちり〜ん”“ちり〜ん”
風鈴がすぐ近くで鳴っている。
川の方に頭をつきだしたような格好になって、私は音の正体を悟ったのだった。
石橋の下には、無数の頭が風に揺れていた。
若い女たちだった。その目は・・・すべて私を見ていた。
なんと言ったらいいのだろう、
断末魔の痛みに呻く顔、自らの死を突きつけられて恐怖に引きつる顔、何故自分が死ななければならないのかという怨みの顔、さまざまの顔をした女たちの目は私を見ていたのだ。
風に揺られて互いにぶつかりながら、女たちの頭のかんざしがこすれて音を出していた。

気がつくと、朝になっていた。私はアパートの玄関で倒れ込んで寝ていた。
冷静になって昨夜のことを考えていたら、父の言葉が思い出された。
「もしもあの橋がまだあったら、憶えておいた方がいい。
何かあったときは、浄大寺に行くんだぞ。」
石橋でなにがあったかを知るため、その日のうちに浄大寺を尋ねることにした。

そこの住職の話によると、
あの石橋では、江戸時代に日照り続きで川の水が枯れた時、
飢饉をおそれた領主が、どこからか集めてきた娘たちの首を切り、生け贄にしたというのだ。
橋に吊した娘たちの涙で川が潤うようにと。
住職は別れ際にこう言った。
「昔のことで、その時は領主もここを守るために必死だったのじゃ。
あんたは、当時の領主の末裔だろう。名前を聞いて分かったよ。あんたに罪はないが、怨みの念を捨てきれない娘たちには、たとえ末裔でも同じ血の匂いがして、呼び起こされるのじゃろう。このままでは、その名前を持った何人もの男たちと同じ運命じゃ。いつか怨み殺されてしまう。
だが儂には、あんたも娘たちも、救うてやる力などない。
殺される前に、早くこの父祖の地を離れなされ。」

住職の話をどこまで信用していいのか、私には分からない。
本当の話ならば、なんてすくいのない話なのだ。
これからもあの娘たちは、あの橋でずっと待っているのだ、私と同じ血を持つものを。
きっと根絶やしにするまでおさまらないのだろう。
とにかく秋が来る前に、会社に辞表を出し、遠い街へ引っ越した。
父には言わなかった。ただあの街を離れることにしたとだけ告げると、黙って頷いていた。
もし私にいつか家族ができ、息子がその街の名前を口にしたら、きっと私も聞くだろう、「あの橋はまだそこにあるか?」と。

夏が来る度に、あの怖ろしい、けれど悲しい風鈴の音を思い出す。
“ちり〜ん”“ちり〜ん”と。