星野先生のこと | 2004/09/09UP |
秋になって、少し肌寒くなってくると、 夜空を見上げたくなります。 数年前の秋、火星が地球に大接近するとかで、 私も毎晩飽きもせずに、赤い星を探しました。 短大に通っていた頃なんで、もう何十年前のことです。 よくスケッチブックを持って、構内をうろついていました。 風景だけじゃなく、顔を描きたい。 同級生たちの若々しい顔には意欲を見出せず、教員室をノックしました。 星野 次郎先生始め、3人ほどの教授たちが不躾な生徒を嫌がりもせず、 付き合ってくださいました。 星野先生は、幼児教育科で、講師をされていました。 眼鏡の奥のいつもにこにこしているような目を見て以来、 一度描きたいと思っていたのです。 先生がどんな方なのかは、全く知りませんでした。 鉛筆を使いながら、SFが好きだとお話ししたら、 「SF小説は僕も大好きだったから、家にはたくさんありますよ。 今度、一度家にいらっしゃい。」 お邪魔すればよかったのに! ずうずうしいくせに臆病だったのか、その時は「ベルヌ」の一冊を借りただけでした。 先生がどんな授業をされているのか興味があって、 「偽学生」になって潜り込んだことがあります。 幼児教育でしょ、幼児の精神的な・・・なんて考えて、 ドアを開けた私は驚きました。 一教室だけでは足りず、山に通じるドアも開け放って、 生徒たちは「紙飛行機」を飛ばしていたのです。 先生は私を見つけると、「おいで、一緒にやろう」と声を掛けられました。 こっそり「偽学生」になった意味がないじゃん! 文化祭の夜、美術部の展示準備で遅くまで残っていた私たちを、 「珍しいものが見られるからおいで」と誘ってくれました。 そこにあったのは「天体望遠鏡」。 そんなに大きい物を見るのは初めてでした。 星野先生がセットしてくれたレンズを覗くと、土星の輪が見えた記憶があります。 「この望遠鏡のレンズは先生が磨いたんだよ。」 教えて貰っても、それがどんなにすごいことかわかりませんでした。 先生は、1997年9月6日、81歳で永眠されました。 800枚以上の反射望遠鏡の凹面鏡(星野鏡と呼ばれた) を仕事の合間に実費のみで研磨し、 「反射望遠鏡の作り方」などの著作は、 アマチュア天文学のバイブルと言われたそうです。 あまり人に知られていなかった趣味として、 ライブ・スチーム(実際に石炭を入れれば走る機関車の精巧なスケールダウン) の制作もされたとか。その写真を見たとき、溜息が出ました。 けれど、それもこれも先生が亡くなられてから、知ったのでした。 何も考えずにお会いしていた日々。 きちんと「一期一会」の意味がわかっていれば。 この人生で触れあうことが出来る人々は、ほんの僅かな「たからもの」 なんだということを夜空を見ながら思います。 小惑星「Hoshino」(3828)は、先生が名付けたそうです。 いつか、見る機会がやってくるでしょうか。 |
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