父のノート(長崎にて) 2001/07/11UP

父は生前、自分史のようなものをノートに書きためていた。
定年退職後の日々、庭仕事のない雨の日「これこそ晴耕雨読」と言いながら、
几帳面な字でびっしり書いていたようだ。

父が入院した後、それを実家へ探しに行くよう頼まれて、私は初めて読んだ。
こんなことを考えていたのか、と驚くことばかりであった。
近頃になって、またそれを読みたいと思ったので、母に尋ねると、
今どこにあるのかわからないと言う。

いつかまた読めると思っていた私は、大変がっかりした。
私達家族がいなくなれば、この世には覚えている人もいなくなってしまう。
誰かが覚えていてほしい。そのために、うろ覚えながらここに綴ってみることにした。


父は戦時中、長崎市にあった三菱造船所で働いていた。
そして、昭和20年8月9日、あの日がきた。
その当日、父は造船所にはいず、直接被爆はしていない。次の日、動員されて長崎市に入った父は二次被爆している。
その一日のことはほとんど覚えていないと書いてあった。ただ、夜になって配られた握り飯はもう腐っていた。もちろん、それでも食べたそうだが。

父達は、しばらくの間、長崎で亡くなった人たちを荼毘に付したりしていたようだ。
そんなある日、ある夫婦を見た。
若い男が井戸で水をくんでは、何度も若い妻に飲ませていた。
ただ、傍目で見ても、その妻の命の火は今にも消えそうであった。
「あの夫婦は生き残れただろうか、今でも思い出す」と書かれていた。
たぶんどこの誰とも、今では探しようもないだろう。
そんな夫婦、家族がたくさんいたのだから。

亡くなった人々は、埋められずそのまま道ばたでも積み上がられて、荼毘に付された。夜になると、青いリンの光がそこら中見られたという。

父はしばらくぶりに自分のうちに帰った。
戦後の混乱期のこと、父は連絡していなかった。
長崎のピカドンの話は隣県である佐賀には届いていたのだろう。
てっきり死んだものと思われていた父が帰ってきて、大騒ぎになったそうだ。
祖父は外へ行って、涙をぬぐっていたという。(昔の男は人前で泣けなかったのだ)


両親が結婚して私が生まれるまでの4年ほどの間、父は被爆2世となる私の健康を危ぶんでいたらしい。だが私は心配を打ち砕くような、標準を遙かに越えるほどのまるまると太った子供であった。

父はその後、私が小学生の頃には「原爆病には、酒がいいからお父さんは飲んでいるんだよ」と冗談を言い、まともに受け取った私が学級で発表するというオチまでついてしまった。もちろん、先生に大笑いされたのだが。